大調和のあゆみ
■大調和展の開催
発表の場を失っていた岸田劉生を、再び画壇に登場させたいという、武者小路実篤の願により、大調和展が開催されたといえる。その為に、白樺派関係の画家・彫刻家は勿論、作家・詩人・評論家による審査というユニークな方法で行われた。
当時の白樺派のメンバー
武者小路実篤、柳 宗悦、木村荘八、清宮 彬、犬養 健、尾崎喜八、佐竹弘行、八幡関太郎、
新城和一、椿 貞雄、バーナードリーチ、小泉 鐵、近藤経一、木下利玄、岸田劉生、志賀直哉、
長与善郎、高村光太郎
■第1回大調和展(昭和2年)は上野の日本美術協会にて開催
審査員として、犬飼 健、片田徳郎、高村光太郎、田中喜作、椿 貞雄、長与善郎、武者小路実篤、梅原龍三郎、久里四郎、倉田百三、柳 宗悦、河野通勢、佐藤春夫、岸田劉生、千家元麿の面々で開催された。
昭和2年(1927年)第1回大調和展覧会ポスター(椿貞雄 画、調布市武者小路記念館所蔵)
■第2回大調和展(昭和3年)は有楽町の朝日新聞楼上にて開催
里見 弴も加わり審査となったが、岸田劉生の死により、この回で解散となってしまった。
一方、武者小路実篤が提唱し「人間らしく生きる」「自己を生かす」社会の実現を目指して造られた、「新しき村」は、1918年(大正7年)から継続されてきた。(現在も活動している)
■復活・大調和展
昭和37年2月、東京都美術館に於いて武者小路実篤を会長に、「新しき村」の協力もあり、解散以後34年を経て大調和展が復活した。 創立委員は、今田謹伍、内田 豊、笠井平蔵、岸田麗子、河野通明、後藤芳仙、斎藤宗馬、播本修三、松原 忠、三浦俊輔、水谷 淳である。その時、創立委員から「戦前の大調和展の面目を失っては・・」との危惧の念を抱いていた。だが、武者小路会長は、我々が「雑誌白樺」を始めた時も、みな無名の集まりだった。心配はいらない、問題はいつまでも希望を持って続けることが大切だと言われた。創立委員にとって、それは何よりの励ましの言葉であった。委員会も、会長に経済的な迷惑は絶対に掛けないで、希望の精神を抱き、いつまでも展覧会を続けることを誓った。
大調和展は、抽象絵画全盛の当時、具象絵画を旗印として第1回展を迎える事となった。
昭和51年4月、武者小路実篤会長の死去は、大調和会に大きな衝撃であったが、一同さらに心を引き締め、会長を置かず、皆で力を合わせ会の運営を継続してきた。
大調和展の具体的な展示方法としては、洋画、日本画、版画、水彩画作品を区別することなく、また役員、会員、会友、一般出品者をも区別する事なく各室平等に展示してきた。
さらに、会の親睦と技量向上のため、頻繁に写生会を行い、また写生旅行も開催され、毎回多くの参加者で大好評である。
大調和会は、武者小路実篤会長の大調和精神を、いつまでも引き継いで行きたいという誓いから出発している。そして、この令和4年は第60回記念・大調和展の開催を迎える事となるが、多くの大調和展を愛して下さる皆様に深く感謝の意を捧げるものである。
調布市武者小路記念館
https://www.mushakoji.org/